「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。
「論語」微子、第十八、六

2012/11/05

安全劇場

朝から鯖の棒寿司と溶き卵のお吸い物で、ちょっと豪華な気分。 酢飯の残りと茄子の糠漬で清貧なちらし寿司がメインのお弁当を作って、出勤。

休憩時間に "This Will Make You Smarter"(J.Brockman 編/ Harper Perennial) より、 R.Anderson の "Science Versus Theatre" を読む。 私が "Security Theatre" という言葉を知ったのは、 暗号関係の仕事をしていたときだから随分前なのだが、 今こそ重要な概念なんじゃないかなあ、と思う。 日本語に訳せば「安全劇場」にでもなるのだろうか、 実際にリスクを下げることではなくて、 「安心する」「安心させる」ことが目的の「対策」、 そして実際には全く危険度は下がっていない、つまり見せかけに過ぎない「対策」のことである。

例えば、近所で通り魔が捕まった。 不安だ。当面の間、皆で毎朝毎夕子供を学校に送り迎えをしよう、と町内会で決める。 そして二週間ほどで日常が戻ってきて、送り迎えも止めてしまう。 なぜ、犯人が捕まった直後の、最も安全な二週間に、送り迎えをするのか。 そしてなぜ、その後、それ以外の何の対策も行なわれないのか。 一言で言えば、「不安だから」だろう。 何もしないでは不安だ。それに、「もし」また事件があったら、 「もし」自分の子供が巻き込まれたら、 何もしなかった自分を許せるだろうか。 それに、送り迎えをしてはいけないことはないだろう。 決して悪くはない。念のためだ。少なくとも、その間は「安心」だ。 二週間して、自然に不安は忘れられる。 もう何の対策をする必要も感じない。

実際、広い意味でセキュリティに関係するあらゆる問題、 例えば、テロ、犯罪、気候変動、異常気象、犯罪、エネルギー問題、 ありとあらゆるところで、 これは「安全劇場」なのではないか、と考えることは重要だと思う。 安全劇場は必ずしも悪ではない。実際、人間の弱き心を慰めるために、 ある程度は必要だろう。 しかし、それは対策ではない、という事実を見過してはいけない。 セキュリティの問題に対する科学の仕事は、 リスクを正しく理解し認識できるよう、 対象を研究し、理論的、実証的な情報を丹念に蓄積して行く、 地味で長期的な作業なのだが、 多くの場合で、「安全劇場」がそれにとって代わられる。 誰が悪いのだろうか。誰かの責任なのだろうか。