「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。
「論語」微子、第十八、六

2013/09/29

幻の豪華弁当

ある日、渓流釣りに来ていて、うっかり弁当を川に流してしまった。 昼時に侘しくしていると、向こうで釣り糸を垂れている見知らぬ紳士が手招きをする。 弁当を一緒にどうか、と言うのである。 一旦は辞退したのだが、余分にあるからご遠慮なさるな、と紳士は風呂敷包みを解き、 黒塗り三段の重箱を広げ始めた。 それは、彩り、素材、手間のかかり方、どこをとっても、 かつて見たこともないような素晴しい弁当だった。 あとで一筆お礼の手紙でも書かねば、と名を尋ねたのだが、 その紳士は笑って答えず、迎えに来た車で帰って行った。 あれは何者だったのだろうか。

と、いうような話を昔、誰かの随筆で読んだはずなのだが、誰のものだったか思い出せない。 内容からして子母沢寛か伊丹十三あたりだろうと、料理関係の書棚を探索してみるも、 どこにもそのような文章はない。 もしかすると、この話は私が夢か何かで見たのかも知れないなあ、とさえ思っていたところ、 今日、「アンソロジー お弁当。」(PARCO 出版)を読んでいて、事実が判明した。

答は向田邦子だった。この実話の主人公は彼女の父親で、 弁当の紳士は勅使河原蒼風(華道草月流の創始者)だったらしい。 その紳士がどんな様子だったか、その弁当がどんな内容だったか、 精緻に記述されていたように記憶していたのだが、 それについてはやはり、私自身が妄想を育ててしまっていたようだ。 彼女の実際の文章では、このエピソードは1ページ程度で簡潔に書かれていて、 例えば、風呂敷包みの重箱、などという記述もない。