以下では「五匹の子豚」の「月と六ペンス」問題の解答を書くので、
もし知りたくないという方はここでこのページを閉じて下さい。
しばしばミステリには、思いがけないことを探偵役が言い当てる、という場面がある。
何故そんなことがわかったのだろう、という驚きが、探偵役の頭の良さを引き立てるわけだ。
例えば「羊たちの沈黙」(T.ハリス著/菊池光訳/新潮文庫)には、
獄中のレクター博士がクラリスに「バッファロゥ・ビルは二階建ての家を持っている」と教える印象的な場面がある。
この場合もそうだが、こういった神秘的な託宣は大抵、あとで種明かしされる。
しかし、最後まで説明がない珍しいケースが、「五匹の子豚」(A.クリスティ著/山本やよい訳/ハヤカワ文庫)
にある。
「五匹の子豚」はクリスティが得意とした「回想の殺人」テーマの傑作で、
名探偵ポアロが十六年前の殺人事件を、五人の容疑者の回想と手記だけから解決する。
この中に、ポアロが容疑者の一人に向けて、
「事件のあった当時、サマセット・モームの『月と六ペンス』を読んでおられたのではありませんか」
と言い当てる場面があるのだ。
確かにそうでした、どうして分かったのですか、とその人物は驚くが、ポアロは特に説明をしない。
私が以前、「五匹の子豚」を読んだときには、
「五匹の子豚」で殺されるのも天才画家、「月と六ペンス」も天才画家の話なので、
その登場人物の性格などから推理したのだろう、という程度で読み流してしまっていた。
しかし、最近、「五匹の子豚」を読み返してみたところ、どうもそうとは思われない。
勿論、今ではインタネット検索すれば、一発で謎が解決するに決まっているが、それでは悔しい。
そこで、「月と六ペンス」(W.S.モーム著/中野好夫訳/新潮文庫)
と「五匹の子豚」を徹底的に再読、三読してみることにした。
そして私は謎を解決した。
一つの手記の中で、その登場人物が激昂して、後で殺される天才画家を指して
「あんなやつ死んじゃえばいいんだわ。不治の病にかかって死ねばいいのよ」
と叫んだ、と証言されている。
一読、二読しても読み飛ばしてしまっていたが、良く良く読むと、
発言者の設定、性格、前後の文章などからして、「不治の病にかかって死ねばいいのよ」
という罵り方は奇妙だし、文章がどこかぎこちない。
これは発言者が、「月と六ペンス」で天才画家が癩病で死ぬことを読んだばかりだったから、
同じく天才的画家である人物を指して「(あいつも同じように)病気で死ねばいい」と罵ったのだ!
私はこの推理に絶対の自信を持って、安心してインタネット検索した。
もちろん正解だったようだが、新しい情報も得られた。
どうやら、クリスティは「不治の病」ではなくて「癩病」と書いていたらしい。
そう書かれていれば、少し勘の良い読者ならピンと来たはずだ。
それがどこかの段階で、
おそらく日本語に翻訳された時点だろうと予想するが、患者差別問題への配慮から書き換えられた。
おかげで、ポアロが(つまり、クリスティが)ちょっと舌を出してみせた程度の軽いパズルが、
難問に変わってしまったのだ。
私はこの問題の探求に、ほぼ一週間分の夜を費したが、なかなか充実した時間であった。