「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。
「論語」微子、第十八、六

2013/11/30

鶏もつ鍋

相変わらずいくらでも眠れる。冬眠したい。 珈琲とヨーグルトだけの簡単な朝食を済ませたあと、 デリバティブ研究部会の自主ゼミに出かける。 しかし、たまたま急遽休んだメンバが多く、 参加者が三人だけだったので、 トルコ土産のお菓子をいただきつつ疑問点をちょっと議論したくらいで、すぐに解散。

午前中に帰宅。朝風呂に入ってから、昼食の支度。 蕪の葉としらすとアンチョビのアーリオ・オーリオ。白ワインを一杯だけ。 食後に蜜柑を一つ。 午後は読書をしたり、数独をしたりと、無為に過していたら夕方。 再度お風呂に入って、湯船で 「文章読本」(丸谷才一著/中公文庫)を読む。

夕食の支度。鶏もつ鍋。 辛味噌ベースのたれを鶏もつに揉み込んでおいて、 土鍋に野菜を盛った上にもつを重ね、野菜から出た水分で蒸し焼きする感じで煮る。 最後に韮を入れて完成。赤ワインを一杯だけ。 あとは饂飩。卵を割り落として、かき混ぜ食す。

2013/11/29

ルイス・キャロルと無限小の確率

ルイス・キャロルことC.L.ドジソンの 「何かある?何もない?」の翻訳を公開します( pdf ファイルへのリンク)。

1880 年代に "Educational Times" という雑誌の問題と回答コーナーで、 「線分上にでたらめに一点を選ぶとき、それが事前に指定した点と一致する確率は?」 という問題に対する議論が起こったときの、ルイス・キャロルの論考。 「答はゼロ」派と「答はある種の無限小」派の論争になり、キャロルは後者を支持した。

興味深いことに、キャロルは「答はゼロ」派を論破するために、 でたらめに選んだ一点が有理数である確率と無理数である確率を問うた。 つまり、指定した一点に当たる確率がゼロなら、 ばらばらの点を集めた有理数の集合だって、無理数の集合だってゼロだろう。 しかし、有理数か無理数の必ずどちらかなのだから確率は足して 1 のはずで、矛盾。 よって答はゼロではなくて、何か「ある」のだ、と主張した。 もちろん、このロジックは誤りだが、着眼点は鋭い。

現代の我々は測度論と公理的確率論を知っているので、 そもそも「でたらめに一点を選ぶ」ことの意味がきちんと定義されなければ問いにも意味がないこと、 また、一様な確率を設定した場合にはその答はゼロであり、 さらに、有理数になる確率もゼロ、しかし無理数になる確率は 1 であることを理解している。 しかし、測度論成立以前の当時の数学者たちは、 この問いにはまだ数学的な枠組みを与えられないことは理解していただろうが、 どうすれば点集合に矛盾なく自然な「長さ」を与えることができるのか、 誰も知らなかったのである。 "Educational Times" は学術誌ではないとは言え、十分にハイブロウな雑誌であり、 現代から一見して思うほどには、こういった議論が滑稽だったわけではないと思う。

2013/11/28

ホレーショの哲学とは?

帰宅してお風呂。湯船の読書は「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)。 昔、華厳の滝から投身自殺した藤村操という人がいて、 「巌頭之感」なる一種の遺書を立木を削って残した。 そこに「ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ」 という一節がある。 私はこれまでずっと、この「ホレーショの哲学」とは「ハムレット」に登場するホレーショの人生観である、 と思ってきた。

しかし、「ラテン語のはなし」によれば、この解釈は決定的なものではないと言う。 確かに、「ハムレット」のホレーショの哲学とは何なのか、良く分からない。 そして、この「ホレーショ」とはホラーティウスではないか、というのが著者の説である。 さらにその「哲学」とは、ホラーティウス「書簡詩」にある "nil admirari" (「何事にも驚かず」)の一句のことではないか、 と主張している。 この一句は森鴎外が「舞姫」の中で「一種の、『ニル、アドミラリイ』の気象」 と引用しており、 実は、藤村操は「舞姫」を読んだだけでホラーティウスを知ったつもりになっていたのでは、と。 これは非常に鋭い推理なのではないだろうか。 少なくとも「ハムレット」のホレーショ説よりはずっと筋が通っている気がする。

夕食の支度。 焼売の皮がまだまだ余っているので、またしても焼売。 毎日、蒸し器が活躍。焼売を包むのも上手になってきたような。 蒸し立ての焼売に黒酢と辛子。贋ビールを一杯だけ。 のち、鮪の角煮、菠薐草のひたし、大根の千切りの味噌汁、御飯。 食後に蜜柑を一つ。

2013/11/27

また焼売

昨日に比べて随分と気温が下がった。 気温が低いのは一向に構わないが、寒暖差が激しいのは身体にこたえるお年頃。 いつもの朝食のあと、徒歩にて出勤。 水曜日なので昼は外食。インドカレー屋でカルマを浄化する。 夕方退社。

帰り道のスーパーで鶏挽肉を買う。 この庶民的なスーパーでは最近、ビニール袋が有料になった。 小さいのが一枚 3 円、大きいのが 5 円。 その店のポスターが言うには、環境保護のためらしい。

帰宅して、お風呂のち、夕食の支度。 今日のメインは白菜と鶏挽肉の焼売。焼売の皮がまだまだ余っているので。 他に菠薐草のひたし、しらす大根おろし、長葱のスープ、御飯。 食後に蜜柑を一つ。

2013/11/26

玉葱の親子丼

どうやら風邪はひかなかったようだ。 いつもの朝食のあと、お弁当を作って出勤。 オフィスまで歩いて行く。今朝はかなり温かい。

夕方退社。帰宅して、お風呂に入ってから夕食の支度。 親子丼と言えば、玉葱を一切使わない伊丹流を信奉してきたのだが、 正直に言うと、やはり玉葱の甘みは捨て難い。 蕎麦通が死ぬ間際に、ああ一度でいいから思い切りつゆをつけて蕎麦を食いたかった、と言い残したという話もあることだし。

そんなわけで、今日は逆に、思い切り玉葱を大量に使ってみた。 玉葱を鶏肉と少なめのたれで蒸し焼き風に煮て、甘みを十分に引き出してから、溶き卵で半熟にとじる。 もみ海苔をして、菠薐草のひたしの小鉢を添える。 のち、チーズで赤ワインを一杯だけ。林檎を一つ。

2013/11/25

大域的な最適化

午後から健康診断なので、朝食は珈琲、ヨーグルト、果物だけ。 出勤して午前中はいつも通りに過し、午後は健康診断へ行く。 検査自体は合計10分もあれば終わると思うのだが、 待ち時間が長く、二時間以上かかってしまった。

どうしてうまく最適化できないのだろうか、 情報科学の専門家か、スターバックスの店員にちょっとアドバイスしてもらえば、 数倍の効率が達成されるに違いない、と昔の私ならば思っていたところだ。 しかし、われ童子の時は思うことも童子のごとく、論ずることも童子のごとくなりしが、 人となりては童子のことを棄てたり。 若者はどんなに賢くても自分中心にしか考えられないので、 自分が関心を持つ目的関数が最適化されていないことを嘆くのだが、 世界の目的関数は大域的に定義されているのである。 例えば、健康保険システムと健康診断サーヴィスの全体からすれば、 被験者の待ち時間はさして重要な因子ではない。

もとより少ない血を抜かれて、ふらふらしながら、健診センターを出る。 夕食時まで我慢しようとも思ったが、 あまりの空腹に堪え兼ねて、近くのカレーライスのチェーン店で遅い昼食。 もう外も暗くなり始めているので、家にまっすぐ帰る。

帰宅して、まずお風呂。読書などして時間を遅らせてから夕食。 健診センターでうつされたのか、背中がぞくぞくするし、鼻の奥もちょっと変だし、 いよいよ風邪かな、と思いつつ、豚肉と菠薐草の常夜鍋。そのあとは饂飩。 明日になれば治っていそうな気もしてきた。

2013/11/24

ルイス・キャロルvs円正方形化人たち

ルイス・キャロルことC.L.ドジソンの未発表の草稿 「円積問題についての単純な事実」第一章の翻訳を公開します (pdf ファイルへのリンク)。

かつて有名な数学者のもとには、角三等分問題や円積問題を解決した、というアマチュアからの手紙が良く届いたそうだ。 この二つともギリシア時代から知られている作図問題だが、現代ではどちらも不可能であることが証明されている。 しかし、よほど数学ファンの心を刺激する問題なのだろう、 こういう人々からの熱心なアプローチに苦労した数学者は多いらしく、 角の三等分に挑戦し続ける人たちを指す「三等分家」("Trisectors")という言葉まである。

与えられた円と同じ面積を持つ正方形を定規とコンパスで作図せよ、 という「円積問題」は三等分問題よりはやや知名度が低いものの、 やはり、多くの数学者がこの問題と、この問題に取り憑かれた人々に、悩まされた。 ドジソン氏もそうだったらしく、 彼はこういう人々を「円正方形化人」("Circle-Squarers")と呼んで、 彼等をまとめて撃退するために本を書こうとしていた。 それが、この「円積問題についての単純な事実」である。 しかし残念ながら出版には至らず、部分的な草稿しか残されていない。 その第一章は序文にあたる内容で、 書かれたタイミングからしても歴史的興味があるかと思い、ここに翻訳してみた。

ルイス・キャロルがどのように円正方形化人たちを説得しようとしていたのか、 その戦略については、翻訳文書をごらんあれ。 これで引き下がるような円正方形化人たちではない、と私は思うのだが……

2013/11/23

今期初ピエンロー

ああ良く寝た。朝食は軽く、珈琲と林檎だけ。 朝風呂。湯船の読書は 「文章読本」(丸谷才一著/中公文庫)。

早めの昼食。たらこスパゲティにもみ海苔。白ワインを一杯だけ。 食後に蜜柑を一つ。 午後は食材の買い出しに行き、 そのあとは「緑のカプセルの謎」(D.カー著/宇野利泰訳/創元推理文庫) を読んだりしてのんびり過す。

歳老いて良いことの一つは、昔読んだ古典的名作の内容をすっかり忘れていて、 再び新鮮な気持ちで楽しめるということだ。 例えば、流石に「アクロイド殺し」とか「オリエント急行の殺人」は覚えているが、 「そして誰もいなくなった」なら既に十分忘れている程度。

昼間は温かかったが、夕方になって冷えてきた。 鍋日和だ。夕食は今期初のピエンローにする。白ワインを少々。 鍋の後は雑炊。

2013/11/22

週末の黒ビール

ようやく週末に辿り着いた。 夕方退社して、近所の洋食屋で、黒ビールを一杯とステーキの夕食。 帰宅して、まずお風呂。 湯船でラテン語に親しむ。

夜は某 P 社から預かった、開発中のデバイスをテストしたり、 「緑のカプセルの謎」(D.カー著/宇野利泰訳/創元推理文庫)を読んだり。

2013/11/21

風景としての開架

今日も良い天気だ。 朝食のあと、昨日の夕食の残りを使って焼売弁当を作り、出勤。 昼休憩はいつもの神保町散歩。 三省堂が改修中のため、日毎に本の場所が変わっていて、若干ストレス。 喩えて言えば、散歩道の風景が毎日ドラスティックに変わっているような。 今日は角川ソフィア文庫の場所を探し周ってしまった。 夕方退社して、帰宅。

お風呂で「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)を一章分読んでから、夕食の支度。 湯豆腐と煮大根で白ワインを少々。 のち、焼売の残り、赤蕪の漬物、御飯、糸若布の味噌汁。 食後に林檎を一つ。

2013/11/20

焼売を作る

あまりに良く眠れ過ぎる。昨夜など 8 時台に寝てしまった。 実は人間も冬眠できるんじゃないだろうか。 いつもの朝食のあと、徒歩にて出社。 水曜日なので昼食は近所のカレー屋にて。 夕方退社。

帰宅してお風呂に入ってから夕食の支度。 今日のメイン、焼売を仕込む。 流石に面倒なので皮は既製品だけれども、蒸し立ての焼売は美味しい。 そして冷えた贋ビール。

風邪を引きそうで引かない。 今日も、何だか背中がぞくぞくするなあ、鼻の奥も変な感じだし、 これは風邪が来たな、とずっと思っていたのだが、 集中して焼売を一つ一つ作っていたら、いつの間にか気にならなくなっていた。 この辺りで一週間くらい風邪で寝込みたいのだがなあ……

2013/11/19

年の瀬

またちょっと気温が下がった感じ。 いつもの朝食とお弁当作りのあと出勤。 今日も粛々とお仕事。 午後は定例のミーティング。 冬休みの予定の話題も出て、いよいよ年の瀬である。 夕方退社。

帰宅して、お風呂に入ってから夕食の支度。 今日のメインは麻婆豆腐。ビールを一杯だけ。

2013/11/18

大根と豆腐

今日も良い天気。朝食のあと弁当を作り、徒歩にて出勤。 いつもそうだが月曜日はさらに低調。 昼休憩に古書店で "Champagne for One" (R.Stout著/ Bantam Books) などを買う。夕方退社。

帰宅。お風呂に入って、いつものように湯船でラテン語に親しむ。 湯上がりに、酢大豆で冷酒を五勺ほど飲みながら、 昆布を敷いた大根が土鍋で煮えるのを待つ。 豆腐を入れ、酒と塩を少々。 椎茸醤油を垂らしつつ食す。大根と豆腐があれば幸せ。 米が炊き上がったところで、御飯にしらすを盛り、自家製ポン酢をかけて。 他に、赤蕪の漬物、長葱の味噌汁。食後に蜜柑を一つ。

夜は「三幕の殺人」(A.クリスティ著/長野きよみ訳/ハヤカワ文庫)など読みつつ、安静に過す。

2013/11/17

数は弱さである

今日も良い天気。 珈琲、ヨーグルト、蜜柑一つの軽い朝食のあと、朝風呂。 湯船の読書は、 「自発的隷従論」(ラ・ボエシ著/山上浩嗣訳/ちくま学芸文庫)。読了。 付録として所収されたシモーヌ・ヴェイユの短い論考に、 「数は力だ」というのは真実ではなく、実は、数は弱さであり、 民衆は自分たちが多数であるのにもかかわらず従うのでなく、多数であるがゆえに従うのだ、 という指摘があって、なかなか恐しい直感であるなあ、と思う。

昼食はアンチョビとしらすのアーリオ・オーリオ、白ワインを一杯だけ。 チーズを少々、蜜柑を一つ。 食後、二時間ほど昼寝。 午後は家事のあれこれ。

夕食の支度。めばちまぐろの赤身のヅケを焼いて丼飯にのせ、もみ海苔をして、粉山椒をふる。 大根の浅漬、大根おろしに二杯酢、長葱の味噌汁。食後に林檎を一つ。

2013/11/16

嵐の日に陸から海の船を見るのは楽しい

今日は良い天気だ。 珈琲とヨーグルトだけの朝食。洗濯をしてから、朝風呂に入る。 散歩がてら食材の買い出し。 昼食には、昨夜の鍋のスープの残りを使って、雑炊を作る。他に、大根の浅漬、酢大豆。 贋ビールを一杯だけ。しばらく昼寝。

夕食の支度。冬の季語、「ねぎま」(葱鮪鍋)。 本来は大トロを使うらしいが、その昔は捨てられるほど安価だったからで、 今では脂ののった大トロを長葱の上にたっぷりのせて……と言うわけには行かない。 安売りしていたメバチの赤身で。 鮪の脂で長葱を味わうという趣きは変わってしまうが、これはこれでよし。

昨夜、「意志と表象としての世界」(ショーペンハウアー著/西尾幹二訳/中公クラシックス) を読んでいたら、ルクレティウスの「物の本性について」から、 「荒れ狂う風が海原を鞭打つとき、海辺にいて、/ 岸に立って、船人が難儀しているさまを眺めるのは、楽しいことだ」 という一節が引用されていて、愕然とした。

と言うのも、私はこの「嵐の日に陸から海の船を見るのは楽しい」という言葉は、 アガサ・クリスティの言葉だと、三十年間くらい、思い込んでいたのである。 ひょっとして、私はどこかでルクレティウスとクリスティを勘違いしたのではないか。 全然違う人物だが、名前だけは似ている。 もちろん、クリスティがルクレティウスを引用した、ということはありうるので、 必ずしも私の勘違いとは断定できないが、とりあえずこの言葉の原典は明らかになった。 しかし、少し残念でもある。 この言葉を他ならぬクリスティが言った、というところを私は面白く感じて、しきりに引用していたのだが、 ルクレティウスではあまりに当たり前ではないか。

2013/11/15

雨の金曜日

朝は比較的に温かかったが、午後からの雨で気温も上がらず、冷える一日。 夕方退社。週末の夜は、料理支度を休むために外食で済ませることが多いのだが、 冷たい雨でそういう気にもなれず、まっすぐ帰る。

帰宅して、まずお風呂。 湯船では「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)。 夕食は、子母沢流の豚肉のうどんすき。色合いが寂しいので、実家産の春菊の残りも入れる。 つけ汁は大根おろしと自家製ポン酢で。白ワインを一杯だけ。

2013/11/14

風邪をひいた時に読む本

猫が変になついてくるところからして、今朝は寒いのだろう。 朝食とお弁当作り。 今日のお弁当は、実家から送ってもらった鰻の蒲焼を使って櫃まぶし。 お昼が楽しみだなあ、と思いつつ、徒歩にて出社。

夕方退社。帰宅して、お風呂に入ってから夕食の支度。 水菜のサラダ、玉葱の薄切りと細葱と生姜のスープ、レトルトのカレーライス。食後に蜜柑を一つ。

「かぜの科学」(J.アッカーマン著/鍛原多惠子訳/早川書房)の付録に、 風邪を引いたときに寝床で読む本の案内があった。 これはなかなか新機軸である。 そこでは、オースティンの「高慢と偏見」、トロロープの "Palliser" シリーズらしき六巻、 「不思議の国のアリス」、マッコール=スミスのボツワナを舞台にした人気推理小説のシリーズ、などが挙がっていた。 いかにもイギリス的で面白い。

今、風邪をひいて一週間ほど寝込むことになったら、私なら何を読むだろう。 「高慢と偏見」はちょっといい感じだが、そこは日本人らしく「細雪」はどうだろう。 いや、それなら谷崎潤一郎訳で「源氏物語」という手もある。 目先を変えて、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」なんかも、風邪でぼんやりした頭に良さそうだし、長さも丁度良い。 気楽な短編をどんどん読むという手もある。例えば、久生十蘭の顎十郎捕物帳。 捕物帳の線は妙案かも知れない。ああ、早く風邪を引かないかなあ。 いや、この喉がいがらっぽい感じは、風邪じゃないだろうか。

2013/11/13

かぜの科学

どうしてこんなに眠れるかなあ。 今日もかなり寒いが、コートを着るほどではない。 いつもの朝食を済ませ、徒歩にて出勤。 水曜日なので昼食は外食。少し歩いて、独特のタイカレー屋へ。 以前はタイの村の名前だったのだが、いつの間にか店名が変わっていた。 夕方退社。

帰宅して、まずお風呂。湯上がりに、おでんの残りで白ワインを一杯だけ。 その間に炊き上がった御飯で、卵かけ御飯、五目豆、小松菜の味噌汁。

夜の読書は「かぜの科学」(J.アッカーマン著/鍛原多惠子訳/早川書房)。 しばらく前からオフィスでも風邪が流行中であることだし、と思って。 この本によれば、我々は一生涯で二百回ほど風邪を引く。 風邪にかかっている期間をまとめると、我々は風邪のせいで 「およそ一生のうち五年間にわたって鼻づまり、咳、頭痛、喉の痛みに襲われ、 おおまかに言って一年間床につく計算になる」とのことである。 そう言われてみると、大損害なような気もする。

この本は大変におもしろく、また、風邪についての最新の知見が沢山得られるのだが、 風邪の予防と治療については、現状では決定的な方法はない、という結論である。 現実的対策としてはせいぜい、良く手を洗う、顔に触らない、子供に近付かない、 などが守れれば(多分、守れないが)、風邪にかかり難いだろう、くらい。 しかし、この本の充実した付録「風邪の慰みに」には、 風邪をひいた時にどうすればよいか、様々な角度からの提言がぎっしり詰まっていて、 ほとんど「風邪を引いたとき完全マニュアル」の感がある。 「慰み」と書いているように、この情報は確実な治療方法ではないのだが、 読んでいるだけでも楽しいので、きっと風邪に何らかの意味で効くことだろう。 特に、最後の「真の療法 — レシピと推薦図書」の一節は、 たまに風邪を引くのもいいものだな、と思わせてくれる。

2013/11/12

冬眠

冬らしくなってきた。朝、窓を開けると、居間が冷気で洗われるのが爽快だ。 昨日から急に下がった気温のせいだろうか、 昨夜は八時頃に既に眠くなってしまい、今朝まで十一時間以上ぐっすり熟睡してしまった。 おそらく身体が冬眠しようとしているのではないか。 このまま冬眠したいのは山々なのだが、キャットフード代や私の味噌代を稼がねばならないので、やむなく人里に下りて行く。

夕方退社。 帰宅してお風呂。湯船では「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)で、ラテン語の勉強。 夕食は出来合いの餃子の残り、五目豆、大根の浅漬、小松菜の味噌汁、御飯。

2013/11/11

春菊

月曜日は不調。やはり労働者には週に三日の休養が必要なのでは。 いつもの納豆定食の朝食のあと、お弁当を適当に詰めて、徒歩にて出勤。 昼休憩に新刊書店で「自発的隷従論」(ド・ラ・ボエシ著/山上浩嗣訳/ちくま学芸文庫) を買った。夕方退社。 午後少し雨が降ったせいで気温も下がり、そこに強い風が吹きつけている。 これは冬が来たらしいぞ、と今年初めて思った。

帰宅してまずお風呂。 湯船では「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)を読む。 夕食の支度。こういう冬らしい日にはやはり鍋料理だ。 というわけで、実家から送られてきた菜っ葉類で、餃子鍋。 自家製のポン酢で。この春菊は庭のあのあたりでとれたのだろうなあ、などと思いながら食す。 春菊は春といいつつ旬が冬なのはこれ如何に。それは花の咲くのが春だからなのである。 贋ビールを一杯だけ。 鍋のあとは、残りのスープを塩胡椒で味を整え、御飯にかけて葱を散らす。

今夜はかなり冷えそうなので、猫にホットカーペットを敷いてやる。 本来は人間が椅子に置いて使う電気座布団(?)なのだが、 私は寒さに強い方なので猫専用になっている。 猫はいつも以上に寝ている。

2013/11/10

「五匹の子豚」と「月と六ペンス」

以下では「五匹の子豚」の「月と六ペンス」問題の解答を書くので、 もし知りたくないという方はここでこのページを閉じて下さい。

しばしばミステリには、思いがけないことを探偵役が言い当てる、という場面がある。 何故そんなことがわかったのだろう、という驚きが、探偵役の頭の良さを引き立てるわけだ。 例えば「羊たちの沈黙」(T.ハリス著/菊池光訳/新潮文庫)には、 獄中のレクター博士がクラリスに「バッファロゥ・ビルは二階建ての家を持っている」と教える印象的な場面がある。 この場合もそうだが、こういった神秘的な託宣は大抵、あとで種明かしされる。 しかし、最後まで説明がない珍しいケースが、「五匹の子豚」(A.クリスティ著/山本やよい訳/ハヤカワ文庫) にある。

「五匹の子豚」はクリスティが得意とした「回想の殺人」テーマの傑作で、 名探偵ポアロが十六年前の殺人事件を、五人の容疑者の回想と手記だけから解決する。 この中に、ポアロが容疑者の一人に向けて、 「事件のあった当時、サマセット・モームの『月と六ペンス』を読んでおられたのではありませんか」 と言い当てる場面があるのだ。 確かにそうでした、どうして分かったのですか、とその人物は驚くが、ポアロは特に説明をしない。

私が以前、「五匹の子豚」を読んだときには、 「五匹の子豚」で殺されるのも天才画家、「月と六ペンス」も天才画家の話なので、 その登場人物の性格などから推理したのだろう、という程度で読み流してしまっていた。 しかし、最近、「五匹の子豚」を読み返してみたところ、どうもそうとは思われない。 勿論、今ではインタネット検索すれば、一発で謎が解決するに決まっているが、それでは悔しい。 そこで、「月と六ペンス」(W.S.モーム著/中野好夫訳/新潮文庫) と「五匹の子豚」を徹底的に再読、三読してみることにした。

そして私は謎を解決した。 一つの手記の中で、その登場人物が激昂して、後で殺される天才画家を指して 「あんなやつ死んじゃえばいいんだわ。不治の病にかかって死ねばいいのよ」 と叫んだ、と証言されている。 一読、二読しても読み飛ばしてしまっていたが、良く良く読むと、 発言者の設定、性格、前後の文章などからして、「不治の病にかかって死ねばいいのよ」 という罵り方は奇妙だし、文章がどこかぎこちない。 これは発言者が、「月と六ペンス」で天才画家が癩病で死ぬことを読んだばかりだったから、 同じく天才的画家である人物を指して「(あいつも同じように)病気で死ねばいい」と罵ったのだ!

私はこの推理に絶対の自信を持って、安心してインタネット検索した。 もちろん正解だったようだが、新しい情報も得られた。 どうやら、クリスティは「不治の病」ではなくて「癩病」と書いていたらしい。 そう書かれていれば、少し勘の良い読者ならピンと来たはずだ。 それがどこかの段階で、 おそらく日本語に翻訳された時点だろうと予想するが、患者差別問題への配慮から書き換えられた。 おかげで、ポアロが(つまり、クリスティが)ちょっと舌を出してみせた程度の軽いパズルが、 難問に変わってしまったのだ。

私はこの問題の探求に、ほぼ一週間分の夜を費したが、なかなか充実した時間であった。

2013/11/09

通俗作家

珈琲、ヨーグルト、蜜柑を一つの軽い朝食ののち、洗濯をして、 デリバティブ研究部会の自主ゼミに出かける。 無限分解可能性への準備として、一次元確率測度の因子の条件コンパクト性のところまで。 参加者によるゼミのあとのランチは、タイ料理。 スープカレー的なものと、シンハー・ビールを一本。

帰宅して、二時間ほど昼寝。良く眠れる季節だなあ。 夕方、母から宅配便が届く。母の手製の料理と野菜など。 夕食は、送られてきた稲荷寿司で済ませておく。 卵の澄まし汁を作り、他に作り置きの菠薐草のひたし、人参炒め。 食後に蜜柑を一つ。

夜は「月と六ペンス」(W.S.モーム著/中野好夫訳/新潮文庫)を読んだりして、静かに過す。 ある理由で読んでいるのだが、さすが当時空前のベストセラーになったというだけあって、 目的を忘れて引き込まれてしまう。 モームと言えば「通俗作家」、 この本の訳者あとがきでも、悪い意味ではないとは言え、通俗、通俗と強調されているのだが、 モームを指して通俗と言えた時代は幸せだったのではないかなあ。

2013/11/08

月と六ペンス

朝の気温がかなり下がってきた。 私自身は特に問題ないが、猫が寒そうなので、 十度を下まわったらホットカーペットでも出してやるかなあ。 いつもの納豆定食の朝食のあと、お弁当を適当に詰めて、徒歩にて出勤。

今日も粛々と労働に励んで、退社。 近所の餃子屋で夕食。 焼き餃子を食べながら、「月と六ペンス」(W.S.モーム著/中野好夫訳/新潮文庫)を読む。

帰宅して、お風呂ののち、酢大豆でビールを飲みつつ、 「月と六ペンス」の続きを読む。のんびりした週末の夜。

2013/11/07

象牙の箸を怖れる

昨日、E 社の社長(兼、一人社員)の N さんとの会食中に、「韓非子」にある「象箸を怖る」という説話が話題になった。

殷の紂王が初めて象牙の箸をあつらえた。 賢臣の箕子はこの話を聞くと、ああ恐しいことだ、と言った。 象牙の箸を持ったら、紂王は今の素焼きの器に満足するだろうか、いや玉の器にしたくなるだろう。 玉の器に盛る料理は今までの通りで満足するだろうか、いや山海の珍味にしたくなるだろう。 そうなったら着物や部屋も今のままで済むまい、「則チ、錦衣八重、広室高台ナラン」。 いずれ、国中の財を集めても足りなくなるに違いない、「吾レ其ノ卒(おわ)リヲ畏ル、故ニ其ノ始メヲ怖ル、ト」。

ご存知の通り、殷の紂王と言えば「酒池肉林」、それが「箕子の怖れ」の五年後、ということになっている。 紂王は弁舌に優れ、頭も良ければ、猛獣を倒すほど力も強く、しかも美貌。おかげで臣下が無能に見えてしようがなかった。 そのせいでもないだろうが、段々と、傍には佞臣ばかりを集め、悪女の妲己に溺れ、重税を課して、贅沢に狂い、殷は滅びた。 箕子は紂王の性根はもちろん、環境や世情についても、良く理解していたのだろう。 だからこそ、象牙の箸を作ったというような些細な出来事の時点で、その結末を怖れることができたのであり、 そういう人を賢人と言うのだ、というお話である。

2013/11/06

浅草にて蕎麦を食う

夕方退社して、浅草へ。 さすらいのハッカー改め、E 社代表取締役兼社長 N さんから、浅草で蕎麦でも食わないかと誘っていただいたので。 そう言えば、秋の新蕎麦の季節なのだろうか。

N 社長は今日が税理士との決算整理なので少し遅れるかも知れない、とのことだったので、 板山葵と「韓非子」(金谷治訳注/岩波文庫)を肴にビールを飲みながら、お待ちする。 この時期は税金や社会保険など、ややこしい経理処理で忙しい方が多いようだ。

しばらくして、N さんも来店。だし巻きや鴨葱、あれこれを肴に冷酒を少々飲んでから、蕎麦切りをいただく。 色々なものを打ち込んだ変わり蕎麦が楽しい。

2013/11/05

色衰ヘ愛弛ブ

昔、以下のようなお話を何かで読んで、子供心にも非常に感心し、ずっと心に残っていた。

ある王様がビシカという美少年を寵愛していた。 ある日、二人が桃の園を散歩しているときのこと、 ビシカが枝から桃を一つとって食べたところ、甘くて美味しい。 そこでビシカはその桃の半分を王様にあげた。 王様は、なんと可愛いやつであろう、こんな美味しい桃を残して分けてくれるなんて、と思った。 しかし月日が過ぎ、寵愛が失われたとき、 王様は、やつは食い残しの桃をわしに食わせよった、と言ってビシカを処罰した。

原典は何なのだろうなあ、と思いつつ、特に調べることもしなかったのだが、 昨日、歌舞伎座の幕間に「文章読本」(丸谷才一著/中公文庫)を読んでいると、 名文の例としてこの話が引用されているのに、思いがけなくも出くわした。 「韓非子」の「説難」、つまり権力者に意見することの難しさについて論じた章の終わりの方、 「昔者、彌子瑕、衛ノ君ニ寵有リ」から始まる短い説話である。

彌子瑕は母親の急病を知って、許しを得ずに君の車に乗って出かけた。 君はそれを知って、「孝ナルカナ、母ノ為メノ故ニ其ノ刖(げつ)罪ヲ忘レタリ」と誉めた。 衛の国の法律では、許しを得ずに君の車に乗ったものは足斬りの刑だったのである。 また、ある日、彌子瑕は君と果園に遊び、桃を食べてうまかったので、食べさしの桃を君に与えた。 君は、「我ヲ愛スル哉、其ノ口味ヲ忘レ、以テ寡人ニ啗(くら)ハシム」と言った。 しかし、彌子瑕の「色衰へ愛弛ブ」におよび、君から咎めを受けることになった。 君が言うには、「是レ固ト嘗テ吾車ニ矯(いつ)ハリ駕シ、又嘗テ吾ニ啗ハシムルニ餘桃ヲ以テセリ」と。 しかし、彌子瑕の行いは最初から全く変わらず同じであり、変わったのは衛王の心である。 「故ニ彌子ノ行ハ未ダ初ヨリ変ゼザルナリ」。

ちなみに、今日「韓非子」のその箇所を読んで驚いたことには、これは有名な「逆鱗」を説明した逸話だった。 初老にいたっての無知は恥ずかしいことである。 なお、この箇所が「文章読本」で引用された理由は、 「色衰へ愛弛ブ」や「故ニ彌子ノ行ハ未ダ初ヨリ変ゼザルナリ」のような、 冷酷で、厳しく、簡潔な文章表現は、漢文を読まぬことには学べない、という主旨だった。 思うに、こういう簡潔にして怜悧な感じはラテン語に似ていて、東西は違え、どちらも古典であるところが面白い。

2013/11/04

十一月の忠臣蔵と幕の内

ああ良く寝た。 珈琲、ヨーグルトのあと納豆定食。 朝風呂に入って、湯船の読書は「文章読本」(丸谷才一著/中公文庫)。 午前中は、図書館に本を返しに行き、そのついでにスーパーで食材を買って帰る。 昼食は、鶏肉、豚肉、蕪の葉、長葱の黒酢焼きそば。

午後は少し昼寝をしてから、冷やしておいた酒とグラスを持って東銀座へ。 辨松の弁当を買って、歌舞伎座にて「仮名手本忠臣蔵」。 昨夜ふと思い立って、席をとった。 夜の部は、五、六、七段目、飛んで十一段目の討ち入り。 勘平を菊五郎、女房おかるを時蔵、遊女おかるを福助、由良之助を吉右衛門など。

辨松の味付けの濃いおかずを肴に飲みながらの観劇。 上戸の人はみな心秘かに、幕の内弁当は酒の肴に丁度良い、と思っているに違いない。 むしろ、幕の内は酒の肴セットと言ってもよい。 そもそも、その目的で開発されたのかも知れない。

それはさておき、忠臣蔵を観ると、 やあ、年の瀬だねえ、もうすぐ正月だよ、という気分になってしまう。 今年、歌舞伎座では今月と来月の二ヶ月続け、配役を替えて忠臣蔵をかけるので、 十一月からの二ヶ月が年末なのだと了解しておく。

2013/11/03

本は忙しいときに読む

よく眠れ過ぎて寝坊。朝食は珈琲とヨーグルトだけにしておく。 洗濯をしてから、朝風呂。 湯船の読書は、「思考のレッスン」(丸谷才一著/文春文庫)。 昨日に読み終えた「文学のレッスン」に引き続き。 午前中は「チューリングの大聖堂」(G.ダイソン著/吉田三知世訳/早川書房)を読む。

早めの昼食は、鶏肉入りのオムレツ、葱のスープ、トーストにバタ。 食後にしばらく昼寝。 午後も家事あれこれと、その合間の読書。 この三日間、特に用事もないので、ゆっくり丸谷才一をまとめて読むかな、 と思っていたのだが「思考のレッスン」に、 「本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう」 とあって、これは一本とられたな、と反省する。 と言いつつ、「思考のレッスン」、読了。

再びお風呂に入ってから、夕食の支度。 豚肉細切れと菠薐草の常夜鍋。大根おろしと自家製ポン酢で。 冷酒を五勺ほど。のち、饂飩。

夜も読書など。「チューリングの大聖堂」、読了。

2013/11/02

うまいこと、おびただしい

ああ良く寝た。曇り空でひんやりとする。 珈琲とヨーグルトだけの朝食のあと、お風呂。 湯船の読書は「そうざい料理帖 巻一」(池波正太郎著/平凡社)。 「食卓の情景」に書かれた日記の文章に出てくる、 「鶏細切れ肉の水炊き」というものが非常に美味しそうだ。

鶏肉の細切れ、豆腐、長葱のザク切り、人参の細切れの水炊き。 食べ方は分からないが、おそらくポン酢だろう。 鶏肉の「細切れ」というものはあまり売っていないのだが、 あちこちの部位が混じっている方が美味しいのかも知れない。 で、この水炊きが終わったあとのスープ。 これを胡椒と塩で味を整え、熱い飯にかけて食べるのだそうだ。 これが「うまいこと、おびただしい」らしい。 鍋のあとの御飯ものといえば雑炊がお決まりで、 汁かけ飯の発想はなかった。これは試してみなければ。

午前中は自主ゼミの予習。無限分解可能分布のところ。 昼食は、納豆に生卵と細葱に醤油と辛子、茄子の糠漬、御飯、切干し大根と葱の味噌汁。 食後にしばらく猫と昼寝。いくらでも眠れる。すぐに夕方。外は少し雨。 お風呂に入って、湯船で「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)を読む。

夕食は池波流の鶏細切れ肉の水炊き。自家製ポン酢に酢橘。 リースリングを少々。 あとのスープかけ御飯には、細葱を刻んで散らし、柚子胡椒を添える。 おびただしく、うまい。確かに、これはいい。 七味の類もあうかも知れないが、私は柚子胡椒を推奨したい。

夜も読書など。 「文学のレッスン」(丸谷才一/聞き手・湯川豊/新潮文庫)。

2013/11/01

徒歩通勤

今日は良い天気だ。気温も低めで快適。 いつもの納豆朝食のあと、お弁当を作る。 今日は卵焼きも入っておかずが充実しているので、海苔弁ではない。 出勤。オフィスまで歩いて行く。最近は気候も良いので徒歩が多い。

出社して静かにお仕事。夕方、退社して近所のカレー屋で夕食。 「文学のレッスン」(丸谷才一/聞き手・湯川豊/新潮文庫) を読みながら、ふかしじゃが芋とチーズでヱビスビールを少し。 のち、チキンカレー。

帰宅して、お風呂。湯船の読書は 「ラテン語のはなし」(逸身喜一郎著/大修館書店)。