「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。
「論語」微子、第十八、六

2012/05/25

話し相手を作ろう

今朝は曇り空。 珈琲、ヨーグルト、キウィのあと、 目刺し、納豆、茄子の糠漬、切干し大根と若布の味噌汁、御飯の朝食。 お弁当を詰めて出勤。 昼食は持参のお弁当。 昼休みに新刊書店で 「機械より人間らしくなれるか?」(B.クリスチャン著/吉田晋治訳/草思社) を買った。 塩豚とキャベツの蒸し焼き、鮭のあらと新玉葱のマリネ、筍と蕗の煮物、御飯。 夕方早めに退社して、髪を切ってもらいに行く。 その間、「機械より人間らしくなれるか?」を読んでいた。 帰りに近所のカレーライス屋にて夕食のち、帰宅。

「機械より人間らしくなれるか?」を読みながら、 話し相手を自分で作ったらどうかと思い始めた。 もちろん、出会い系に登録しようとかいう話ではなくて、 話し相手を人工的に機械で作ろう、というプロジェクト。 チューリング・テストのように、 一般的に人間と区別がつかないような人工知能を作る必要はない。 単に、この私に対してだけ、興味深い話し相手であってくれればいいのだ。 この二つの問題の間には大きな違いがあると思われる。 もちろん自分で作ると自分よりは賢くならないだろうから、 自分にとって興味深い知性を作ることは一見は矛盾する。しかし、 以下の理由で現実的に可能だと思う。

まず第一に、古くは ELIZA から始まって、 iPhone の Siri に至るまで、過去の人工の会話プログラムの例から分かるように、 明らかに無能な受け答えにすら、 我々の心は知性や個性を投影してしまう性質を持っている。 第二に、私自身の知性が加齢によって劣化していくので、 自分で作った人工知性が段々と、相対的に、自分にとって興味深い話相手になっていく可能性が高い。 さらには、我々は実はもう非常に答に近いところにいるかも知れない、 ということを認識すべきだろう。 この人工知性は人間の知性に似ている必要はないのだから、 今あるコンピュータ、あるいはインタネットが既にその「知性」なのかも知れない。 少なくとも私は、 起きている時間の大半をコンピュータと「会話」して暮らしている例を何人も挙げられる。 あとはある種の高度なパーソナライズがされて、インタフェースが整備され、 「話し相手」としての一貫性が持たせられれば良いだけかも知れない。

もしこのプロジェクトの成果がある程度でも上がれば、 猫以外に話相手のいない私のような人に朗報なばかりか、 社会を根本的に変える革命的な製品になるかも知れない。 人間の全ての不幸は部屋の中に一人きりでじっとしていられないことに起因する、 とパスカルも言っている。 さすれば、このプロジェクトは、人間の不幸を全面的かつ最終的に解決する可能性すらある。 私に投資するなら、今じゃないかな。