「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。
「論語」微子、第十八、六

2015/10/24

屠竜の技

ああ良く寝た。朝食はヨーグルトと珈琲のみ。朝風呂の湯船で「荘子」(金谷治訳/岩波文庫)を読む。雑篇の終わりのあたり。朱泙漫という人が竜の屠り方を学ぶため、財産を注ぎ尽し、三年かかってその技を習得したのだったが、使い道はなかった。うーむ、大学院の博士課程で数学を学ぶことの比喩だろうか……と思ったりして(笑)。

この短い一節を指して「屠竜の技」の故事と言い、高価な犠牲を払って身につけても実際役に立たない技芸のことを指すことが多いようだが、「荘子」の精神から言えば、もっと深い哲学的な意味を内包しているような気がする。

ちょっと検索してみると、消防庁のハイパーレスキュー隊がこの言葉(「屠龍技」)を心得としているそうで、災害を竜に喩え、実際に現れなくても敵に備えるため研鑽を積む、というように解釈しているようだ。昔々、中国のある村に時に竜が現れて村民を苦しめていたのだが、ある青年が竜を殺す技の修行を始め、一生をその精進に捧げた。しかし、竜が村に現れることは二度となかった、というような話が添えられている情報もあった。実は、その青年を恐れて竜が来なくなったのだよ、という隠しオチなのだろう。

しかしながら、「荘子」雑篇にあるのは、屠竜の術を学ぶために家財を尽して三年かかって技を身につけたが使うことはなかった、という単純で短い文章だけであり、その解釈も書かれていない。