今日は良い天気だ。 珈琲とヨーグルトだけの朝食。洗濯をしてから、朝風呂に入る。 散歩がてら食材の買い出し。 昼食には、昨夜の鍋のスープの残りを使って、雑炊を作る。他に、大根の浅漬、酢大豆。 贋ビールを一杯だけ。しばらく昼寝。
夕食の支度。冬の季語、「ねぎま」(葱鮪鍋)。 本来は大トロを使うらしいが、その昔は捨てられるほど安価だったからで、 今では脂ののった大トロを長葱の上にたっぷりのせて……と言うわけには行かない。 安売りしていたメバチの赤身で。 鮪の脂で長葱を味わうという趣きは変わってしまうが、これはこれでよし。
昨夜、「意志と表象としての世界」(ショーペンハウアー著/西尾幹二訳/中公クラシックス) を読んでいたら、ルクレティウスの「物の本性について」から、 「荒れ狂う風が海原を鞭打つとき、海辺にいて、/ 岸に立って、船人が難儀しているさまを眺めるのは、楽しいことだ」 という一節が引用されていて、愕然とした。
と言うのも、私はこの「嵐の日に陸から海の船を見るのは楽しい」という言葉は、 アガサ・クリスティの言葉だと、三十年間くらい、思い込んでいたのである。 ひょっとして、私はどこかでルクレティウスとクリスティを勘違いしたのではないか。 全然違う人物だが、名前だけは似ている。 もちろん、クリスティがルクレティウスを引用した、ということはありうるので、 必ずしも私の勘違いとは断定できないが、とりあえずこの言葉の原典は明らかになった。 しかし、少し残念でもある。 この言葉を他ならぬクリスティが言った、というところを私は面白く感じて、しきりに引用していたのだが、 ルクレティウスではあまりに当たり前ではないか。