再び猫を例に取ろう。あなたの家の庭に毎日同じ野良猫が姿を見せるとしよう。こうしたことが毎日起こるために一体その猫が毎日どこでどのような活動をしているか、しなければならないかを想像してみよう。まずその猫は餌を調達する縄張りを持っており、そこで調達した餌で自分の体を養い、夜は安全な寝場所を確保できなければならないし、車の通行に対する一定の認識があり、身の安全を確保できるのでなければならない。しかもこうしたことは、一日も欠かさず毎日起こるのでなければならない。これらのどの活動や条件が途絶えても、猫はもはやあなたの庭を訪れないということが起こる。言い換えるなら、その猫が庭を歩いている姿の一瞥の中にあなたは、猫の存在、すなわち今述べたような諸活動を意識することなく想定しているのである。あなたが「またあの猫が居る(存在している=生きて居る)」のを知っているということは、こうしたことなのである。毎日繰り返しているこの何気ない想いのなかで、あなたは自分で夢想すらしたことのないような壮大な認識を行っているのである。こうして認識されている壮大な出来事が、あなたがこの世界で生きているということであり、あの猫がこの世界で生きているということであり、あなた達があなたの庭という場所で毎日出会うということなのである。こうした認識を自覚する時、我々は認識されている事態を奇跡と呼ぶ。奇跡とは自覚された命である。
「生き方と哲学」(鬼界彰夫著/講談社)より