昨日は春のような温かさだったのだが、今朝は真冬。 午後、定例のミーティングが終わった頃、神保町にも雪が降り始めた。 どんどん雪の勢いが増して、夕方私が帰る頃がピークだったようだ。
夜は「昨日までの世界」(J.ダイアモンド著/倉骨彰訳/日本経済新聞社)を読んだり。 この本に「建設的なパラノイア」という面白い概念が出てくる。
著者がニューギニアの密林の奥地に鳥類調査に行ったときのこと、 ある巨木の脇にテントを設営しようと決め、現地人の助手に準備を命じた。 しかし、現地人たちは激しく動揺し、あの木の傍で寝るのは嫌だ、と主張した。 あの木は枯れており、いつ倒れてきて我々を殺すかも知れない、と言うのである。 著者は、この木は確かに枯れているが、腐ってもおらず、ぐらついてもいない、 風で倒れることもまずありえない、しかも風も吹いていない、と説得を繰り返したが、 現地人たちは怯え切っていて、設営は不可能だった。 しかし、著者は数ヶ月の観察活動の間に、何度も木の倒れる音を聞き、 その下敷になって死んだ現地人の話を聞かされて、あることに気付く。
現地のニューギニア人は森の中で野営することが多い。 おそらく一年に百日以上だから、四十年の人生の間には四千日以上の野営をする。 すると、千回に一回しか起こらないような極めてレアな事象でも、高い確率で起こることになる。 ちなみに、起こる確率が千分の一の独立な事象を千回繰り返したとき、 一度も起こらない確率は三分の一程度しかなく、四千回繰り返すならその確率は 2% 以下しかない。 つまり、ニューギニアの密林において枯れた大木の傍で寝る愚か者は、若死にする。
現地人たちの被害妄想としか思えなかった感覚の合理性に敬服した著者は、 このことを「建設的なパラノイア」と呼んで、帰国後の普段の生活でも肝に銘じたという。 このような「有益な妄想」とでも呼ぶべき、起こる確率が非常に低い危険を慎重に避ける傾向は、 世界各地の伝統的社会(原始の暮しを保っている社会)において、数多く観察されているそうである。