週末のイネス研究。「アリントン邸の怪事件」(M.イネス著/井伊順彦訳/長崎出版)、読了。アプルビイは警視総監を引退して荘園生活を満喫中なので、シリーズ後期に属する。イネスには珍しくかなりトリック指向。伏線も丹念に引かれてゐて、一見は本格ミステリの秀作と思へなくもない。
しかし、伏線と言つても、単に先回りして書いておきました、と言ふ程度のものであつて、モダン・ディテクティヴの文法における伏線ではない。つまり、「あれはこのことであつたのか」と謎や不自然さが合理的に解決されるわけではない。また、「意外な真相」を聞かされても、一つの解釈のやうな印象しか受けない。結局のところ、パズラーの格好はしてゐながらもパズラーの精神がない。
しかし、ミステリ小説としてつまらないわけではなく、実際面白いのである。鷹揚としたクラシックなミステリのムードと、それに対してオフビート気味な展開、いかにも英国風の皮肉なユーモアと英国的教養に満ちた会話と描写、複雑で微妙な真相、まさにイネス節が満喫できる(やや軽めの)一品。
イギリス人から「一言で言ふと、シェイクスピアは "subtle" なのだ」と聞いて、うまいことを言ふものだな、と思つた記憶がある。日本語にはぴつたり一致する語がないのだが、イネスを読んでゐてもこの "subtle" と言ふ語が良く思ひ浮かぶ。