湯船の読書は「カワハギの肝」(杉浦明平著/光文社文庫)。「一度もうまいと感じたことのない京都の料理さえ……」なんてさらりと書けるのは随分正直な人なのだな、と思ふ。勿論、杉浦明平は、うまい沢庵を食べたければ畑を二畝ほど耕して青首宮重大根の種を撒くところから、と言ふ人なので、京料理とは正反対の立場にゐるのかも知れない。本当にうまいものとはさうしたものだ、と言ふスノッブではなくて、自分の境遇ではさうするしかない、と言ふ意味なのだが、この二つの間には差があるやうであまりない。
この本に収められた「食いもの談義」の中で、吉田健一の「私の食物誌」について書いた、「この人が賞味する食物の半分は…(略)…その産地の知人から送り届けられたものであることに気がついた」の箇所に、思はず(湯船で)膝を打つた。曰く、吉田健一は生産にも製造にも一切無関心で、出来上がって奉献されたものを一二〇%享受するのであり、それは日本の芸術の伝統ではないか、と。また、それは王朝貴族のやりかたでもあり、最近の文芸評論も王朝文化に回帰してるよ、とまで書く。さすが、筋金入りの共産主義者だな、と言ふ気もするが、なかなか鋭い指摘ではある。