連休は自宅で仕事をし過ぎて疲れるので、谷間の平日に会社に遊びに行く。
昼食はまたしても、神保町のカレー。
午後も半ばくらいで退社。
帰宅して、お風呂に入る。
湯船の読書は
"The signal and the noise" (N.Silver 著 / Penguin).
お湯からあがって、夕食の支度。
御飯を炊いている間に、
冷奴でビールを始める。
牛挽肉と茄子とさやえんどうのタイ風炒めもの、
しらすに自家製ポンズ、小さめの春菊のような菜のおひたし、
御飯、絹莢の味噌汁。
食後にアップルパイを一切れと珈琲を一杯いただきながら、
「食は広州に在り」(邱永漢著/中公文庫)を読む。
おでんはまずい、なぜならこれだけの材料を煮込んでそれぞれの味を生かすには、
昆布や鰹節程度のだしでは不十分で、鶏のガラか豚の骨を使わなければ駄目だ、
と書いているのを読んで、
大食通として知られた邱永漢先生でも若い頃は味が分かっていなかったのだな、
少なくともおでんについては理解していなかったのだなあ、と微笑ましく思う。
もちろん、
中国料理で奢った舌からすれば、当時の日本の食生活の水準は(当時の文人と同様)、
実際にずいぶん貧しいものだったろうから、自然な反応だったのかも知れない。
あるいは、魯山人がフランスの鴨料理の名店で、
懐から出した醤油と粉山葵で鴨を食べ、
こちらの方がうまいと言ってみせたのと同じ類の、
反骨精神から来る一種の気取りでもあろうかなあ。
富貴三代方知飲食、とはそのあたりの事情を示した言葉かも知れない。
味を語るのは難しいことである。