平日いつもの納豆定食の朝食のあと、ラテン語と數學基礎論の勉強を少しづつ。今朝は形容詞の名詞的用法になかなか気付かず、演習問題一問しか進まなかつた。
今年の初出勤。まだ今週は冬休みの人が多いのだらう、町もまだ閉店してゐる店が目立つし、通勤電車も空いてゐた。往きの車中の讀書は玉上訳注「源氏物語」の第八巻のところを、今週は正月気分を持續するため「細雪」。
歸宅して、風呂に入つてから夕食の支度。と言つても、まだ御節の殘りがたんとあるので、御節でいただきものの「超群」純米吟醸を五勺ほど。いかにもそんな名前の數學的オブジェクトがありさうだが(``super group" ?)、勿論無関係だらう。のち、煮麺。年越しした実家で、「痩せ過ぎではないのか」「どこか惡いに違ひない」としきりに責められたので、少し食べる量を増やすかなあ、と思つたからでもないが素麺を二把茹でたのは、やはり食べ過ぎだつた。
夜は ``Quantum Computing since Democritus" (S.Aaronson / Cambridge University Press)など。
「夫子憮然曰、鳥獣不可與同羣。吾非斯人之徒與、而誰與。」
「論語」微子、第十八、六
2017/01/04
2017/01/03
浴室には誰もいない
午後はおせち料理の殘りを肴にビールなど飲みながら、「悪魔の手毬唄」(市川崑監督/1977年)を観たり。升ではかつて漏斗で飲んで……
さて、あつと言ふ間の一週間だつた。毎日が冬休みならいいのになあ。早く次の冬休みにならないだらうか。と思ひながら、湯船で「細雪」(谷崎潤一郎著/中公文庫)の最後のあたりを讀み、そのあとの夕食は、年末から仕込んで年を越したチキンカレー。シラーを一杯だけ。グラスの殘りでおせちを少し。
「浴室には誰もいない」(C.ワトスン著/直良和美訳/創元推理文庫)、讀了。非常に樂しく讀めた。中心の事件は、自称セールスマン実はスパイだつた男が失踪、その家主が彼を殺して始末したのか、それとも彼自身が事件を演出して逃走したのか、と言ふだけの単純な謎なので、いくらひねつても大きな驚きはない。しかし、シャープに書かれてゐるので、ミステリとして納得できる。また、本筋の警察の捜査と情報部の立場からの捜査が交互に書かれるのだが、この後者のとんちんかんさと両者のずれがとても可笑しい。こちらのファース風味に重点を置いて伝統的「お馬鹿スパイもの」として書くこともできただらう。しかし、プロットを邪魔せず、むしろ、互ひにからみあつて有機的な面白さに昇華されてゐるところが新しい。
さて、あつと言ふ間の一週間だつた。毎日が冬休みならいいのになあ。早く次の冬休みにならないだらうか。と思ひながら、湯船で「細雪」(谷崎潤一郎著/中公文庫)の最後のあたりを讀み、そのあとの夕食は、年末から仕込んで年を越したチキンカレー。シラーを一杯だけ。グラスの殘りでおせちを少し。
「浴室には誰もいない」(C.ワトスン著/直良和美訳/創元推理文庫)、讀了。非常に樂しく讀めた。中心の事件は、自称セールスマン実はスパイだつた男が失踪、その家主が彼を殺して始末したのか、それとも彼自身が事件を演出して逃走したのか、と言ふだけの単純な謎なので、いくらひねつても大きな驚きはない。しかし、シャープに書かれてゐるので、ミステリとして納得できる。また、本筋の警察の捜査と情報部の立場からの捜査が交互に書かれるのだが、この後者のとんちんかんさと両者のずれがとても可笑しい。こちらのファース風味に重点を置いて伝統的「お馬鹿スパイもの」として書くこともできただらう。しかし、プロットを邪魔せず、むしろ、互ひにからみあつて有機的な面白さに昇華されてゐるところが新しい。
2017/01/02
映画「細雪」
晝食におせち料理と稲荷寿司でシャンパンを少々飲みながら、ヴィデオで「細雪」(市川崑監督/1983)を観る。
原作からの私のイメージとは相當に違ふし、話の筋も随分と簡略化の上に改変もされてゐるのだが、私は岸惠子(長女鶴子役)を見るのが好きだし、畳紙を一杯に広げたり、沢山の衣紋掛けに着物を出した場面なんかは懐しいなあ、などと思ひつつ、しみじみ樂しめた。全体に着物がどれも水色や桃色でぽつてりしてやぼつたいのだが、そこが関西らしい。粋筋でもない限り、晴れ着はかうしたものだ。鶴子の着物だけは、時々ちよつと垢抜けてゐる。意図的な演出なのかも。
映画の最後、東京に引越す鶴子が雪子に東京に遊びに來るやう誘ふのに、「來月は歌舞伎座で六代目が道成寺の道行から後ジテまで通しでやるんやてえ」と汽車の中から言ふ場面がある。少し説明的でわざとらしい。「六代目」とは菊五郎のことで、原作ではあちこちで菊五郎のことが言及されるし、当時の風俗を感じさせるためにも、ここの場面に差し込んだのか。それはさておき、最後の場面が汽車の見送りでの別れとは月並ではあるが、やはり鶴子の最後の台詞にはぐつと來る。
夕食は水炊き鍋。あとは卵を割り入れて雑炊。シャンパンの殘りを飲みながら、TV で歌舞伎座や大阪松竹座などからの初芝居の生中継を觀る。しかし、やはり初芝居は歌舞伎座に出かけたいものだ。
取り敢へず、いい正月であるなあ。
原作からの私のイメージとは相當に違ふし、話の筋も随分と簡略化の上に改変もされてゐるのだが、私は岸惠子(長女鶴子役)を見るのが好きだし、畳紙を一杯に広げたり、沢山の衣紋掛けに着物を出した場面なんかは懐しいなあ、などと思ひつつ、しみじみ樂しめた。全体に着物がどれも水色や桃色でぽつてりしてやぼつたいのだが、そこが関西らしい。粋筋でもない限り、晴れ着はかうしたものだ。鶴子の着物だけは、時々ちよつと垢抜けてゐる。意図的な演出なのかも。
映画の最後、東京に引越す鶴子が雪子に東京に遊びに來るやう誘ふのに、「來月は歌舞伎座で六代目が道成寺の道行から後ジテまで通しでやるんやてえ」と汽車の中から言ふ場面がある。少し説明的でわざとらしい。「六代目」とは菊五郎のことで、原作ではあちこちで菊五郎のことが言及されるし、当時の風俗を感じさせるためにも、ここの場面に差し込んだのか。それはさておき、最後の場面が汽車の見送りでの別れとは月並ではあるが、やはり鶴子の最後の台詞にはぐつと來る。
夕食は水炊き鍋。あとは卵を割り入れて雑炊。シャンパンの殘りを飲みながら、TV で歌舞伎座や大阪松竹座などからの初芝居の生中継を觀る。しかし、やはり初芝居は歌舞伎座に出かけたいものだ。
取り敢へず、いい正月であるなあ。
2017/01/01
椿油
年越しだけは実家で過し、すぐに戻つて來た。実家は相変はらずだつたが、庭の椿が大木になつてゐたのだけは印象的だつた。無論、急に育つたのではなくて、昔、祖祖母と大叔父の家の庭にあつた椿から零れた種が芽吹いたものを移してから三十年、ずつと家の庭にあつたのだが、ふと今年、こんなに大きかつたつけ、と気付いたのである。今は沢山の蕾をつけてゐて、二月には真赤に咲くとのことだ。
知らんうちに立派になつたもんやなあ、と母に言ふと、ええお屋敷では椿は植ゑんもんやけどな、と言ひつつも、まんざらでもないやうだつた。老母が話すことには、昔は近所に椿油を絞つてくれる場所があつて、祖母は祖祖母宅の椿の種で油を作つてもらつてゐた、との由。そう言へば椿油つこてたなあ、と思ひ出したが、庭の椿で作つてゐたとは知らなかつた。
年越しは概ね、「細雪」(谷崎潤一郎著/中公文庫)を讀んでゐた。今、丁度中程くらゐ。細雪は話の筋なんて関係なく、滅び行く豊かさの最期の輝き、と言つた風情に浸るのがよい。今の日本には豪奢と言ふ言葉に値するほど厚みのある文化がほとんどないので。
知らんうちに立派になつたもんやなあ、と母に言ふと、ええお屋敷では椿は植ゑんもんやけどな、と言ひつつも、まんざらでもないやうだつた。老母が話すことには、昔は近所に椿油を絞つてくれる場所があつて、祖母は祖祖母宅の椿の種で油を作つてもらつてゐた、との由。そう言へば椿油つこてたなあ、と思ひ出したが、庭の椿で作つてゐたとは知らなかつた。
年越しは概ね、「細雪」(谷崎潤一郎著/中公文庫)を讀んでゐた。今、丁度中程くらゐ。細雪は話の筋なんて関係なく、滅び行く豊かさの最期の輝き、と言つた風情に浸るのがよい。今の日本には豪奢と言ふ言葉に値するほど厚みのある文化がほとんどないので。
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